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広島地方裁判所 昭和55年(ワ)500号 判決 1985年9月17日

原告 小田茂子 ほか二五七名

被告 広島市 ほか一名

代理人 馬場久枝 谷本義明

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは連帯して原告ら各自に対し金二〇万円およびこれに対する昭和五五年五月一一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  事実経過

(一) 広島市南区比治山公園の通称「南の広場」一帯は、もと旧陸軍省の管理する陸軍墓地(以下、旧陸軍墓地という。)であつた。旧陸軍墓地には、明治・大正年間の戦死者及び戦病死者(以下、戦没者という)を個人ごとに埋葬した個人墓三六〇〇柱及び合葬墓(その一つに、シベリア戦役における戦没者を合葬した忠魂墓碑があつた。以下、これを旧忠魂墓碑という。)のほか、日華事変(いわゆる支那事変)及びノモンハン事件における戦没者七〇〇〇柱の分骨を納めた仮納骨堂があつた。

(二) 昭和一九年、旧陸軍は、旧陸軍墓地内の個人墓三六〇〇柱を整理し、その分骨を旧忠魂墓碑に納めるとともに、その墓石及び残余の遺骨(本尊遺骨)を隣接地に埋めた。

(三) 昭和二〇年一一月三〇日、旧陸軍は、旧陸軍墓地の管理を被告広島市(以下、被告市という。)に委託した。

(四) 昭和二二年、旧陸軍墓地一帯はABOO(原爆障害調査委員会)の用地とされることとなつたため、被告市は、旧忠魂墓碑を比治山公園の通称「中の広場」に移設するとともに、仮納骨堂に納められていた支那事変及びノモンハン事件における戦没者七〇〇〇柱の分骨をも移設後の忠魂墓碑(以下、現忠魂墓碑という。)に納めた。

(五) また、被告市は、昭和二四年一一月二四日、現忠魂墓碑について、墓地、埋葬等に関する法律(以下、墓埋法という。)一〇条による納骨堂新設の許可を受けた。

(六) 一方、民間団体である比治山旧陸軍墓碑復興会(以下、復興会という。)は、前記(二)のとおり埋められていた個人墓の墓石及び本尊遺骨を発掘して、その場所に個人墓を再建することを計画し、昭和三一年三月からその工事にとりかかつたが、右個人墓三六〇〇柱の分骨が現忠魂墓碑に納められているため、これを右再建にかかる墓地(以下、再建墓地という。)の納骨堂に本尊遺骨とともに収納合骨することを企図し、昭和三三年六月末ころ、現忠魂墓碑の管理者である被告市に対し、現忠魂墓碑中の右分骨を再建墓地の納骨堂に移し替えるよう陳情した。

(七) ところが、右陳情を受けた被告市は、これを現忠魂墓碑中の遺骨全部の再建墓地への改葬申請として取扱い、昭和三五年一〇月一三日ころ右改葬を許可する一方、同月一一日、被告広島県(以下、被告県という。)に対して、現忠魂墓碑の納骨堂としての用途廃止を申請し、被告県は同月一七日これを許可した。

(八) そして、被告市は同月一〇日、比治山陸軍墓地清掃奉仕会の協力のもとに現忠魂墓碑中の遺骨を再建墓地の納骨堂へ移し替えた。右移し替え作業に当たつて、被告市は、前記陳情の趣旨に反し、個人墓三六〇〇柱の分骨のみならず、支那事変・ノモンハン事件の戦没者七〇〇〇柱の分骨についてもその移し替えをし、かつ右七〇〇〇柱の分骨は、一霊ごとに骨壺(一部は封筒)に納められて氏名、戦没年月日及び階級が表示されていたのに、すべて骨壺等から取り出して混淆させたうえ、再建墓地の地下合骨室に通じるマンホール内に投入して、これを損壊、遺棄した。

なお、右マンホールは、被告市の分骨の移し替え作業が前記陳情後二年余にわたつて遅延したため、やむを得ず当初の設計を変更し、分骨(三六〇〇柱)収納の経路として設けた竪穴坑である。

また、右移し替え作業に当たつて、被告市には、前記七〇〇〇柱の骨壺を粉砕し、あるいは雨ざらしのまま地表に放置するなどの不当な所為があり、その移し替えも完全なものではなく、現忠魂墓碑には、なお一〇〇ないし一〇〇〇柱の遺骨が残されている。

2  被告市の違法行為

(一) 前記1の(六)に記載のとおり、復興会が被告市に対して改葬の陳情をしたのは、明治・大正年間の戦没者の個人墓三六〇〇柱の分骨についてであるのに、被告市は、支那事変・ノモンハン事件における戦没者七〇〇〇柱の分骨についてまで移し替え作業を行つた。再建墓地は、前記個人墓の本尊遺骨及び分骨を埋葬するためのものであり、納骨堂もそのためのものであつて、支那事変・ノモンハン事件における戦没者のための墳墓ないしは納骨堂は存しないのであるから、ここに前記七〇〇〇柱の分骨を改葬することは、墓埋法上も、遺霊、遺族に対する礼儀としても許されない。

(二) 被告市は、前記1の(八)に記載のとおり、支那事変・ノモンハン事件の戦没者七〇〇〇柱の分骨を骨壺等から取り出して混淆させたことにより、その識別を不能にさせ、かつ、これをマンホールに投入して損壊、遺棄し、またその骨壺を粉砕しあるいは雨ざらしにして地表に放置した。

(三) なお、仮に、右移し替え作業の主体が被告市ではないとしても、被告市は、現忠魂墓碑の管理者であつたのであるから、右移し替え作業全般にわたつてこれを指導、監督すべき義務があつたのに、現忠魂墓碑の鍵を作業員に交付したのみで、一人の立会人、監督者も置かなかつたため、右のような違法な移し替え作業が行われたものである。

(四) また、被告市は、前記1の(七)に記載のとおり、被告県に対して、現忠魂墓碑の納骨堂としての用途廃止を申請し、その許可を受けているが、前記2(一)に記載のとおり、支那事変・ノモンハン事件における戦没者七〇〇〇柱の分骨を再建墓地に移し替えることは許されないのであるから、右用途廃止の申請は違法である。仮に右移し替えが許されるとしても、前記1の(八)に記載のとおり、現忠魂墓碑には、右移し替え作業後も一〇〇ないし一〇〇〇柱の遺骨が残存していたのであり、これを無視してなされた右廃止の申請は違法である。

3  被告県の違法行為

被告県は、前記1の(七)に記載の、現忠魂墓碑の納骨堂としての用途廃止の申請に対し、十分事実を調査することなく、前記2の(四)に記載の違法を看過して、漫然右廃止を許可したものである。

4  原告らの損害

(一) 原告らは、現忠魂墓碑に納められていた支那事変・ノモンハン事件における戦没者七〇〇〇柱のうち、別表に記載の小田松一外二六一柱の祭祀者である。

(二) 被告らの前記違法行為は、右遺霊並びにその祭祀者である原告らに対する重大な冒涜であり、これに対する慰謝料は、原告各自につき二〇万円が相当である。

5  結論

よつて、国家賠償法一条に基づく損害賠償として、原告らは各自被告らに対し、連帯して二〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和五五年五月一一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1(一)  請求原因1の(一)、(二)の事実のうち、比治山公園の通称「南の広場」一帯が、もと旧陸軍省の管理する旧陸軍墓地であつたことは認める。その余の事実については、以下のとおりである。すなわち、旧陸軍墓地には、戊辰、西南の役を始めとする明治初年の戦役、日清戦争、北清事変、日露戦争、シベリア戦役(シベリア出兵)、日華事変(いわゆる支那事変)等における戦没者約四五〇〇余柱の遺骨が埋葬されていた。

ところが、昭和一六年七月、陸軍墓地規則の改正によつて、戦没者の遺骨を合塔方式により合葬することができるようになつたことに伴い、旧陸軍省は、旧陸軍墓地に埋蔵されていた遺骨を右方式により合葬するため、忠霊塔の建設を計画し、昭和一九年四月ころまでに、旧陸軍墓地内の墓を一基残らず掘り起こし、掘り出した遺骨の一部を新たに建設した仮納骨堂に収蔵するとともに、残余の遺骨を墓石とともに隣接地に埋めた。

ところが、その後昭和二〇年八月六日、広島市は原子爆弾によつて廃墟となり、終戦を迎えたため、右忠霊塔の建設事業は中止され、以後昭和二四年まで旧陸軍墓地は荒廃地と化していた。

(二)  同1の(三)について、被告市は、旧陸軍(中国軍管区司令部)から、原告主張の日に、旧陸軍墓地のうち、右仮納骨堂の管理を委託されたものである。

(三)  同1の(四)の事実のうち、昭和二二年ころ、旧陸軍墓地一帯がABOOの用地とされることとなつたことは認めるが、その余の事実は否認する。すなわち、ABOOの施設建設に伴い、旧陸軍墓地内の仮納骨堂及び埋められていた墓石をABOOの経費負担によつて整理することとされ、通称「中の広場」に現忠魂墓碑が建設され(従つて移設ではない)、右仮納骨堂に収蔵されていた遺骨が右忠魂墓碑に移し替えられるとともに、周辺に散在していた墓石等は粗末にならないよう一か所に集めて埋められたものである。

以上のとおり、旧陸軍墓地に埋葬されていた遺骨の総数は約四五〇〇余柱であり、これがすべて掘り起こされて前記仮納骨堂に納められ、そのうちの一部が現忠魂墓碑に納められたものであつて、現忠魂墓碑に原告ら主張のような七〇〇〇柱もの遺骨が納められていたことはない。

(四)  同1の(五)の事実は認める。

(五)  同1の(六)ないし(八)の事実のうち、復興会によつて、旧陸軍基地内に再建墓地が建設され、昭和三五年一〇月ごろその完成をみたこと、同会が被告市に対して、現忠魂墓碑内の遺骨を再建墓地へ移し替えるよう申請し、被告市が原告主張のころこれを承諾したこと、昭和三五年一〇月一〇日までに、現忠魂墓碑内の遺骨が再建墓地に移し替えられたこと、被告市の申請により、昭和三五年一一月一七日、被告県が現忠魂墓碑の納骨堂としての用途廃止の許可をしたことは認め、その余の事実は否認する。

まず、再建墓地は、旧陸軍墓地の復興を目的として建設されたものであり、復興会も現忠魂墓碑内に納められている遺骨全部の移し替えを要望したものであつて、その対象遺骨は明治・大正年間の個人墓の遺骨に限られない。

また、右移し替えは被告市が行つたものではなく、復興会が独自に行つたものである。なお、右移し替えは、焼骨の一部(分骨)を他の納骨堂に移すものであつて、墓埋法上の改葬に当たらず、管理権者である被告市しかなしえないものではない。

さらに、本件移し替え作業に当たつて、復興会は、経をあげて供養のうえこれを行い、丁重に遺骨を取り扱つている。

なお、再建墓地への埋葬方法、再建墓地の納骨室の形態等は復興会が独自に決定したものであつて、被告市の関知するところではない。

また、右移し替えは、現忠魂墓碑内にあつた遺骨全部について行われたものであつて、現忠魂墓碑には遺骨は残存していない。

2  請求原因2の(一)、(三)、(四)の主張は争い、同(二)の事実は否認する。

3  同3の主張は争う。

4  同4の(一)の事実は否認し、同(二)の主張は争う。

第三証拠 <略>

理由

一  争いのない事実

請求原因1(事実経過)の各項のうち、

(一)  広島市南区比治山公園内の通称「南の広場」一帯が、かつて旧陸軍墓地であつたこと、同墓地には、明治・大正年間の戦役(明治初年の戦役、日清・日露戦争、シベリア出兵等)による戦没者が埋葬されていたこと(墳墓の数や形式を除く)、また、支那事変・ノモンハン事件の戦没者の分骨(その数を除く)も同墓地に葬られ、仮納骨堂も設けられていたこと(これが専ら支那事変等戦没者の分骨を納めるものであつたか否かの点を除く)、

(二)  昭和一九年ごろ、旧陸軍が同墓地の墓を発掘して遺骨を取り出し、その一部を分骨として収蔵し(収蔵先が旧忠魂墓碑か仮納骨堂かの点を除く)、残余の遺骨(原告らのいう本尊遺骨)と墓石を隣接地に埋めたこと、

(三)  同二〇年一一月三〇日、旧陸軍が同墓地内の仮納骨堂の管理を被告市に委託したこと(委託の対象が同墓地全体であるとする点を除く)、

(四)  同二二年ごろ、同墓地一帯がABOO(原爆障害調査委員会)の用地として提供され、これに伴つて、比治山公園内の通称「中の広場」に現忠魂墓碑が建設され(既設のものの移設か新設かの点を除く)、南の広場仮納骨堂に納められていた分骨(明治・大正戦没者のものを含むか支那事変・ノモンハン事件戦没者のもののみか及びその数は除く)が現忠魂墓碑内に納められたこと、

(五)  同二四年一一月二四日、被告市は現忠魂墓碑について、被告県の知事から、墓埋法一〇条による納骨堂新設の許可を受けたこと、

(六)  同三一年ごろ、復興会が旧陸軍墓地に再建墓地の建設を計画し、同三五年一〇月ごろこれを完成したこと、その間同三三年六月ごろ、同会が被告市に対し、現忠魂墓碑内の遺骨を再建墓地に移し替えるよう陳情(または申請)したこと(その対象が明治・大正戦没者の分骨のみか、支那事変・ノモンハン事件戦没者のそれを含むかの点を除く)、

(七)  同三五年一〇月ごろ、被告市がこれを承諾し(改葬の許可にあたるか否かを除く)、一方、被告県に対し現忠魂墓碑の納骨堂としての用途廃止を申請し、被告県の知事が同年一一月一七日これを許可したこと、

(八)  同年一〇月一〇日、現忠魂墓碑内の遺骨が再建墓地に移し替えられたこと(その主体及び残留遺骨の有無の点を除く)

以上の事実は当事者間に争いがない。

二  現忠魂墓碑内に存した遺骨について

1  <証拠略>を総合すると、以下の事実が認められる。

(一)  旧陸軍墓地には、明治・大正年間の各戦役による戦没者を個々に埋葬した個人墓と合同して埋葬した合葬墓が多数存在したが、昭和十年代に入つて、支那事変及びノモンハン事件(以下、支那事変等という)戦没者の分骨を収蔵する仮納骨堂が設けられ、遺族らによつて多くの分骨が納められた。

(二)  昭和一九年頃、旧陸軍は、右個人墓・合葬墓を整理して、遺骨本体から分骨を採り、支那事変等戦没者の分骨と共に、新たに建設する忠霊塔内納骨堂に収蔵することを計画した。そして、個人墓等を掘り出し、分骨を採つて前記仮納骨堂に納め、残余の遺骨は墓石とともに周辺土地の土中に埋めた。しかし、忠霊塔の建設は実現をみないまま終戦を迎え、当時は、原爆によつて半ば破壊された仮納骨堂と、その周辺に僅かな墓石が残つている状態であつた。

(三)  昭和二二年、旧陸軍墓地一帯はABOOの用地として提供されることとなつた(土地所有者である国とABOOとの間で土地使用の契約が結ばれた)ため、旧陸軍から委託されて仮納骨堂の管理にあたつていた被告市の市長は、新たに比治山公園中の広場に大石塔を建設して、塔内地下に前記の分骨を納めることとし、昭和二四年一〇月、被告県の知事に納骨堂新設の許可を申請し、同年一一月二四日その許可を得て右石塔を完成した。これが現忠魂墓碑である(なお、前述のように、旧陸軍による忠霊塔ないし忠魂墓碑は完成に至らなかつたと認められるから、以下においては、現在のものを単に忠魂墓碑という。)。そして、同市長は、当時仮納骨堂内に存した分骨をすべて忠魂墓碑内の納骨堂に納めた。

(四)  右収納にかかる遺骨(分骨)の総数について、昭和二九年八月に被告市の厚生局職員が調査したところ、骨壺・封筒等により氏名が判明したもの三〇二〇柱、不明のもの二一〇柱であつた。

(五)  右調査にかかる「比治山納骨堂納骨名簿」(<証拠略>)には、原告らが祭祀の対象とする者(別表記載の戦没者)の名を若干数見出すことができる。

以上のとおり認められる。

2  原告らは、明治・大正年間戦没者三六〇〇柱と、支那事変等戦没者七〇〇〇柱、合計一万余柱の分骨が忠魂墓碑内に納められていたと主張し、<証拠略>にはこれに沿う部分があり、また、<証拠略>のうち中野ら作成名義のもののうちにも、これに沿う記述が見受けられる。しかし、もともと、旧陸軍墓地内の仮納骨堂に納められた分骨の数を確知するだけの証拠はないし、前記のように、仮納骨堂が原爆により半ば破壊され、堂内の分骨が散逸した可能性も多分にあることを併せ考えると、忠魂墓碑内に、前記調査結果を大きく上廻る分骨が存在したとは認め難い。

3  次に、忠魂墓碑内の分骨と原告らとの関係について、上述のとおり、原告らの祭祀対象者中<証拠略>に記載があるものは一部に過ぎず、多くは<証拠略>にその名を見出すことができず、他に、原告らの祭祀対象たる分骨のすべてが忠魂墓碑内に存したことを認めるべき確実な証拠はない(<証拠略>によつても、その事実を認めるに十分ではない)。しかし、右のとおり、原告らの少くとも一部の者は、忠魂墓碑内分骨の祭祀者と認めることができるから、以下、このことを前提に、原告らの主張を検討することとする。

三  忠魂墓碑内分骨の再建墓地への移し替えについて

1  先ず、右移し替えの主体についてみるに、<証拠略>によれば、その主体は訴外立石吾一を代表者とする復興会であり、これに訴外岩田日出子を会長とする比治山陸軍墓地清掃奉仕会(その構成員は復興会とほとんど共通する)が協力して行つたものと認められる。

原告らの主張中には、被告市が忠魂墓碑の管理者である以上、墓碑内分骨の移し替えの主体も被告市以外にはあり得ないとの指摘も見受けられるが、管理者が、相当の資格・能力を有する第三者に対し、右分骨移し替えの承認を与えることは可能と考えられるし、<証拠略>にあらわれた復興会の実態や実績に照らすと、同会は右移し替えの実行者として決して不適当な存在ではないと考えられるから、これに承認を与えた被告市の措置に、違法の点はない。

2  なお、右移し替えの申し出とこれに対する承認は、墓埋法二条(編注・五条の誤りか)の改葬申請とその許可(被告市の市長による)の性質を併有すると解せられ、<証拠略>によれば、被告市の市長もそのように取扱つたことが認められる(この点、被告らは本訴答弁において、焼骨の一部を他の墳墓等に移すことは改葬にあたらないとの見解を述べるけれども、分骨という行為自体はそうであるとしても、本件の移し替えは、既に納骨堂に納められた分骨を他の墳墓等に移すものであるから、右見解は採用できない)。しかし、このように解しても、右承認ないし改葬の許可を違法とすべき事由は見当たらない。

3  次に、右移し替え、(以下においても、当事者の用語に従つて移し替えという)の対象たる遺骨の範囲について検討する。

前記のとおり、忠魂墓碑内には、明治・大正年間の戦没者の分骨(旧陸軍により、遺骨本体から採取されたもの)と、支那事変等戦没者の分骨(遺族らによつて納骨されたもの)があつたが、<証拠略>によれば、再建墓地納骨室には、明治・大正年間戦没者の残余の遺骨(分骨を採つた後、地中に埋められていた本尊遺骨)が掘り出され納められたことが認められるから、右戦没者については、忠魂墓碑内の分骨を再建墓地に移すことにより、本尊遺骨と分骨とが同じ場所に帰一することとなり、この点、再建墓地内に本尊遺骨が存しない支那事変等戦没者の分骨とは趣きを異にするとの原告らの主張は理解できなくはない。

しかしながら、<証拠略>には、遺骨三千余柱とあつて、明治・大正年間戦没者の分骨と支那事変等戦没者のそれとを区別し、後者を移し替えの対象から除く趣旨が明らかとはいえないし、かえつて、右にいう三千余柱は、前記昭和二九年の調査による忠魂墓碑内分骨総数三二〇〇余と概ね一致し、その全体を指す趣旨と理解することも可能である。そして、実際の移し替え作業についてみても、<証拠略>によれば、復興会、清掃奉仕会の幹部である訴外岩田日出子らの指揮のもとに、前記のような戦役による区別を全くしないまま、忠魂墓碑内の分骨をすべて再建墓地に移し替えたことが認められ、したがつて、復興会自身、そのような区別をしていなかつたことが推認される。また、もともと、明治・大正年間戦没者の遺骨も、支那事変等戦没者の分骨もともに旧陸軍墓地の墓域内に葬られ、特に前者から分骨が採られて後は、同じ仮納骨堂、次いで忠魂墓碑内に納められていた関係にあるから、これらを旧陸軍墓地に建設された再建墓地に合葬することが、しかく不合理とも不当とも考えられない。なお、<証拠略>によれば、忠魂墓碑内は、時に雨が降り込んで床が水びたしになるなど、分骨の保管状況は良好ではなかつたことが認められ、復興会の会員らとしては、分骨の全部を再建墓地に安置する必要を強く感じていたと推認される。一方、再建墓地内の遺骨収蔵場所は、<証拠略>によれば、竪穴(マンホール)というよりも、縦長の納骨室とみることができ、その基底部で最も広い部分に明治・大正年間戦没者の本尊遺骨、その上方にその分骨と支那事変等戦没者の分骨が納められたことが認められ、これら本・分骨全部を収蔵する施設として、構造上不適切なものとはみられない。

結局、復興会による移し替えの対象は、忠魂墓碑内に存した分骨の全部であつて、支那事変等戦没者のそれを除外した旨、或いは除外すべきであつた旨の原告らの主張は肯認することができない。

4  進んで、右移し替えの方法、態様について検討するに、<証拠略>によれば、右移し替えは、復興会、清掃奉仕会の会員ら二〇名位に葬祭業者の田村明らが加わり、忠魂墓碑内の分骨を容れた骨壺、封筒などを運び出し、在中の分骨のみをダンボール箱等に移してリヤカーで再建墓地まで運び、前記納骨室の上方から流し込むようにして入れ、このような作業を反復して一日で全部の移し替えを終えたこと、骨壺等は、翌日再建墓地付近に穴を掘つて大半を埋めたこと、右作業の開始にあたつては僧侶に読経を頼んで供養をしたこと、会員ら自身も遺霊を安めるため、口々に経文を唱えるなどして作業にあたつたことが認められ、会員らがいずれも信仰心の厚い篤志家であることを考えると、右移し替えは総じて遺骨に対する礼を失しないよう鄭重に行われたと認めることができる。

原告らは、右移し替えの作業を、分骨をマンホールに投棄して損壊したものというけれども、その収蔵場所が納骨室と目し得るものであることは前記のとおりであるし、収容方法として、構造上、順次上方から収納して行く以外の方法は困難とみられる(明治・大正年間戦没者の分骨も同様にして収容されたが、原告らはこの点を何ら問題としていない)から、右の方法についても、著しく不当とすべき点はない。

また、<証拠略>によれば、上記移し替え作業の後、骨壺等は一部地上に残り、中には破損したものも相当数あつたが、後に徳風会、清掃奉仕会の会員である西河内や佐々木某らがこれらを取り片付け、地上にあつた骨壺を再び忠魂墓碑まで運んで整然と収容したことが認められるから、作業後骨壺が散乱、放置されていたとか、移し替えられない遺骨が忠魂墓碑内になお残留していたとの原告らの主張は当たらない。

四  原告ら主張の違法事由について

1  請求原因2(被告市の違法行為)のうち(一)については、既に述べたとおり、再建墓地への遺骨の移し替えは、支那事変等戦没者の分骨を除外したもの惑いは除外すべきものとは認められないから、被告市(正しくは市長)が右分骨を含む忠魂墓碑内遺骨の全部につき右移し替えを承認したことに何らの違法はない。

2  同2(二)についても、既述のとおり被告市は右移し替えの主体ではないし、復興会が行つた移し替え作業に、主張のような違法の点があつたとも認められない。

なお、支那事変等戦没者の分骨が、骨壺等から取り出されて再建墓地内納骨室に納められたことにより、個々の識別が不能となつたことは事実であるが、これらはもともと遺族らによつて、本尊遺骨とは別に仮納骨堂に納められた分骨であること、当時既に十数年ないし二十余年を経過していたこと、忠魂墓碑内の保管状況が悪化する一方、新たに再建墓地が相当の規模をもつて建設されたこと等を考えると、再建墓地内の合葬式納骨室に移すことによつて混淆する結果となつても、遺骨に対し著しく礼を失するものではなく、違法ではないと判断される。

3  同(三)は、被告市の管理者としての責任を云々するものであるが、信仰心厚く遺霊への尊崇の念も深い復興会会員らが、その発意により遺骨の移し替えを行うものである以上、その作業につき被告市が具体的な指揮・監督をしなかつたとしても違法とはいえない。また、右作業自体総じて鄭重に行われたことも前述のとおりである。

4  同(四)について、支那事変等戦没者の分骨移し替えに違法の点がないことは繰り返し述べたところであり、また、忠魂墓碑内に存した遺骨の全部が再建墓地に移された(現に同墓碑内に存する骨壺は、分骨が取り出された後のものを収納しているに過ぎない)ことも前記認定のとおりであるから、被告市(正しくは市長)が同墓碑につき、納骨堂としての用途廃止申請をしたことに、何ら違法のかどはない。

5  請求原因3(被告県の違法行為)についても、右用途廃止申請が適法になされ、これを妨げる事由も存しない以上、被告県の知事が右申請を許可したことに違法はない。

五  結語

以上の次第で、原告らの本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 田川雄三 小西秀宣 井上秀雄)

当事者目録 <略>

別表 <略>

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